文学の横道
読書会の内容ってどういうものなの? という疑問もおありだと思います。
いくつかまとめたものを披露いたします。
『文学の横道』が行っているのは評論等の堅苦しい内容ではありません。
小説好きが集まって、感想等を言い合ったのを担当者がまとめたものです。
12月度開催読書会アラカルト(著書:みちのくの人形たち 著者:深沢七郎)
出席者:由宇、今井、酒井、藤堂
藤堂:
深沢七郎と言えば「楢山節考」が代表作である。
以前読書会で「楢山節考」を読み、いたく感銘を受けた記憶がある。
今回彼の著書をまた読む事になった。
深沢七郎の文章は楢山節考を読んだ時もそう感じたわけだが、そんなに巧いというわけではない。
表現も簡易だし、書いてある内容も何回か同じような言い回しを使用しており、ちょっとしつこいかな? ありきたりだなと思わせる部分も多々ある。
だが、氏の文章には温かみが感じられる。
「楢山節考」も今回の「みちのくの人形たち」も筆者の感情が文章に乗り移っている。
特に今回の「みちのくの人形たち」は筆者自身が経験したような「ルポルタージュ」形式になっており、余計に強くそう思えた。
舞台は東北の奥地、1960年代から70年代、東北からの出稼ぎ者が主人公の家に、突然現れるところから始まる。
それも山草の土の件でやってくる。
主人公は見知らぬ人の突然の訪問に対しても、つっけんどんに追い返すわけでもなく、付き合い、ついには彼の誘いに応じてその男の家にまで赴くことになる。
現代ではなかなか想定しえないシチュエーションである。
その人の家に行った際に、その村での風習を経験し、独特の感覚を覚えて帰ってくるという話である。
この風習と言うのは、生まれたばかりの赤ん坊を息がする前に窒息させて殺してしまうというものである。
息をしてしまうと、殺人になってしまうために、その前に殺してしまうという事だ。
これは田舎で次から次へと子供ができてしまうが、その子供を堕胎できない為に、取られたその田舎だけに伝わる風習らしい。
その生まれたばかりの赤ん坊を逆さ屏風の陰で行う。
その屏風を管理しているのが、その昔産婆で、その罪の深さから両腕を切り落としたご祖先を持つ「旦那様」である。
彼家族はその地域で赤ん坊が生まれ、口減らしをしないといけない場合、地域の人々に屏風を貸し出している。
主人公はその事実を知り、びっくりすると共に、幻覚症状に近い感覚をしばらく味わうことになる。
筆者の「楢山節考」も今回の「みちのくの人形たち」も田舎の昔からの風習に応じて何の疑問も感じることなく「口減らし」を淡々と行う。
家族も周りの人々も、泣くわけでもなく、淡々としているのである。
筆者は感受性豊かな性格であるため、この田舎の風習みたいなものに気持ちが追い付いていけずに、あっけにとられているばかりである。
その筆者の様を深沢は簡易な文章で書き連ねていくのである。
読み手は、筆者の平易な文章と同じような表現の連続により、その異様な光景の中に徐々に吸い込まれていく。
これが深沢文学の真骨頂である。
「楢山節考」で一番に印象に残っているのは、おばあさんが居なくなった晩に普通に日常生活が進行しているその光景である。
今作「みちのくの人形たち」でも赤ん坊を葬っていても普通に日常生活が流れている違和感である。
この違和感をクローズアップしているのが筆者の書く原動力となっているのだなと感じた。
11月度開催読書会アラカルト(著書:ハンチバック 著者:市川沙央)
出席者:由宇、藤堂
藤堂:
今回初めて著者の作品を読んだ。マイノリティに関して昨今色々と言われており、健常者がマイノリティを主人公に書くという行為はとかく、理解していないとか、低く見ているとか、マイノリティを蔑視していると揶揄される傾向が強くなっている。
その点、本小説は作者自身が筋疾患先天性ミオパチーにより症候性側弯症:しょうこうせいそくわんしょうを罹患しており、筋金入りのマイノリティである。その彼女が同病の主人公にありのまま、気の向くままに彼女ならではの毒を吐かせている。読む側は、変に気を使うことなく、主人公釈華の毒に時に驚き、時に笑い、そして泣く。
作者市川沙央の彼女が持つ健常者に対する憧れや憎しみの感情が言霊の様に読者に投げ込まれてくる。
作者の表現や描写はなかなか巧い。健常者がマイノリティをどう見ているのか? どう観察しているのか? またマイノリティが健常者をどう見ているのか? 今までの小説はその部分を書けていなかった。その前人未到領域に初めて作者が踏み込み、タブーをうち破った。そこが芥川賞を取れた理由だと思う。
健常者がこの小説を書いたとしても、ケチが付いたと思う。理解できていても、何にも分からないくせに、障碍者を主人公に書くなと揶揄されてしまう事だろう。
主人公の釈華が、妊娠し、堕胎してみたい、と夢想することが宗教的、道徳的にダメだ。けしからんという意見もあるだろうが、あくまでこの主人公は一個の人間としてこの世に生を受けて生きたという証を何かの形で残したいと思うのは自然な思いである。少なくとも僕は釈華の気持ちが痛いほど理解できる。
限られた人間関係の中で介護士田中にその共犯者として白羽の矢を立てる。合点がいかなかったのは、田中が同意したにもかかわらず、金をもらわずに姿を消した点である。
読んだ人に、以下2点の見解を聞いて参考にしたいと思う。
①なぜ田中は金を受け取らずに、釈華の前から姿を消したのか?
②風俗嬢の紗花は、彼女(釈華)が呟いていた、現実には出来なかった「こと」を「私」がするであろうと、呟いて終わるのはどういう意味か?
様々な解釈の余地を残している本作は、小説として中々上等な仕上がりになっていると思う。
7月度開催読書会アラカルト(著書:沖で待つ 著者:絲山秋子)
出席者:由宇、@なっちぃー、ちか、藤堂
ちか:主人公の私と自分自身が同年代の女性同士で、男性社会の中で働く女性という事で共感できることが多いと感じた。
男女雇用均等法ができたばかりのこの頃の方が今よりももっと難しかったんじゃないかと感じた。
由宇:
“新卒同期という非言語の日本システム”
日本独特の連帯感をもつ同期。
学徒によるクラスメート、あるいは、部活動の仲間、よりもその結束は独特で強い。
友人よりも強く、家族よりもときに強さを持つ、年数の経過をも超越する。
男女関係よりも時に結束し、本音を語れる。
まれに同期が存在しない社会人がいる、誤解を恐れずにいえば、うつ病候補者になりえる。
それほどに貴重な同期入社を表現している。
藤堂:
単なる会社の同期が、地方への赴任、そして別れ、そして再会を経て、“腐れ縁”的関係になり、互いの秘密を結果的に知ることにより、自分は他人に恥部を明かし、他人は自分に恥部をさらす結果になる。
そんな恥部を知ってしまった以上、赤の他人のままではいられなくなるという不思議。これがこの小説のテーマなのではないだろうか?
主人公の「私」が男と渡り合うような過酷な住宅設備機器メーカーの営業職というのも、本小説で「太っちゃん」が心を許せ、気安く何でも言い合える関係になっていると感じた。同じ“企業戦士”同士が時に愚痴を言い合ったり、オアシスを求めたりと、むしろ私の方が「太っちゃん」のマウントを取っている気がして面白かった。
6月度開催読書会アラカルト(著者:ディケンズ)
出席者:由宇、藤堂
藤堂:
「墓堀男をさらった鬼の話」
この物語は独立した短編ではなく長編小説『ピクウィック・ペイパーズ』の中で語られる挿話であるらしい。
孤独で陰気で、人の不幸を喜ぶようなひねくれ者の葬儀屋ゲイブリエル・グラブが、クリスマス・イブの夜に墓場で鬼に出会うという物語である。
この人物は後の『クリスマス・キャロル』の主人公スクルージの原型だという。 世をすねた墓堀男がクリスマスイブの夜にやり残した墓堀の続きをする。
人が幸せそうにしていると無性に腹が立ち、嫌みを言うのが常であった。
この夜も墓堀に向かう途中、クリスマスの讃歌を練習していた子供をひっつかまえて、カンテラで何度も殴る。子供が泣きながら逃げていくのを見て楽しくなる男である。 ウオッカを飲みながら墓堀をしていると、先程から子供を泣かせる様子を見ていた鬼が現れ、このゲイブリエルを地底に連れて行く。
途中鬼たちが墓石で次々に馬飛びをしていく場面など、恐ろしくもコミカルな要素も多いが、心に残るのははやり鬼がゲイブリエルに見せる映画のワンシーンのような映像の数々と、彼の反応である。
鬼は、死んでいく天使のような幼子の姿や、貧しいけれどひたむきに生きる人々の様子、美しい自然の風景などを次々とゲイブリエルに見せていき、ゲイブリエルはこれまで見ようとしてこなかったそれらの光景を食い入るように見つめ続ける。
そして、妬みの気持ちから楽しくはしゃぐ子供に意地悪をしていたことを鬼に指摘された彼は、映像を観終わり、これまでの自分勝手な考えを改めることを決意する。このあと、改心し、鬼から解放されたゲイブリエルがどのような人生を送ったのかは詳しくは描かれていない。
道徳的な要素が全面的に押し出されているというよりは、超自然的な存在の鬼の持つ恐怖やユーモア、自分勝手なゲイブリエルが鬼たちに好き勝手にされるおかしさなどが目立った作品となっている。悔い改めるゲイブリエルの様子はどこかあっさりとしてもいる。
希望と野心に燃えていた若き青年ディケンズの姿が垣間見える小説である。
「信号手」
ディケンズの傑作短編と言われている。多くのファンがいる作品である。
信号手の仕事は、前後のポイントからの情報に基づいて必要があれば自分の信号を赤に変えるというものである。
自分も情報を送る任務を負っている。
「私」 は偶然に崖から深い窪みを見下ろして信号手を見つける。声を掛けて信号手の小屋へ行き世間話をする。
しかし信号手は酷く何かにおびえている。話をするうちに、彼が赤信号燈のところに幽霊がいて、しきりに自分になにかの合図を送っているのが見えるという事を知る。
胸騒ぎがするが、そんな曖昧な情報を送ることができずにいた。
日を改めて小屋を訪れた私は、彼が列車に轢かれて死亡した現場に遭遇する。その列車運転手の状況説明は、彼 (信号手) が見たという幽霊の行動とそっくりなので戦慄を覚える。一種の未来予知能力を題材にして、信号手にそれを体現させたようにも見える。
一方、作中の 「私」 が実はこの世の人物ではなく、信号手の身に危険が迫っていることを伝えに来た霊界の者という設定も考えられたりする。
この小説を書くきっかけなった実際の列車事故に遇ったのは1865年6月9日、翌年に書き上げて、1870年6月9日にディケンズは亡くなっている。
チャールズ・ディケンズといえば、貧しい人々の視点から社会を見ようとしたイギリスの国民的作家である。
「おうい、そこの下の人。」本小説のキーワードは、この一言に尽きる。
このセリフが何回か出てきて、誰が誰に対して放ったセリフなのか後半分からなくなる。
私なのか? 幽霊なのか? はたまた信号手なのか?
この誰が放ったかわからないセリフが読者を混乱させ、恐怖を味わせる効果を増大させている。そう言った意味でこの小説の手法は現代のミステリー小説の源流になっていると思うのである。